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泗川邑城明月

民を愛する王の心が残る泗川邑城
今は洙陽公園という名前の泗川市民の休憩空間
その頭頂にある八角亭で迎える美しい月見
「明月が満空山なので、休んで行ったらどうだろう」
一つの詩、一つの節が自然と出てくる「泗川邑城明月」

  • 실안낙조-1

    7景泗川邑城明月

    民を愛する王の心が残る泗川邑城
    今は洙陽公園という名前の泗川市民の休憩空間

  • 실안낙조-2

    民を保護し、外敵を防ぐために築いたという
    泗川邑城は現在、泗川市民の休息空間として造成されており、
    泗川邑城の高いところから見下ろす泗川邑の
    景観と月見がとても美しいです。

    泗川邑城の位置は、貞義里の一部と宣仁里にまたがっており、
    現在の洙陽公園一帯を含む全地域が、旧邑城地です。

築城時期は朝鮮世宗24年(1442)で、兵曹参判辛引孫が王命によって城を築きました。
それから4年後の世宗27年(1445)春に、公庁(公務を執る家)など
すべての建物を建て、県基を正東面古邑からここに移しました。

規模を見ると、最初の記録には城の周り3,015尺、城壁の高さ10.5~11.5尺、
城門と甕城が各3か所と言われています。
その後の記録には、城の周辺5,015尺、城壁の高さ15尺、女堞630か所、
城門と甕城が各3か所にあったと言います。
これにより、初期に追加して増築があったことを垣間見ることができます。

この城は本来、民を保護し、外敵を防ぐために築かれましたが、
壬辰倭乱の時、倭敵に踏みつけられる侮辱を受けしました。
以後、宣祖32年(1598)9月28日ごろ、
鄭起龍将軍が率いる朝鮮軍と明元軍が連合して
この城を奪還するために血戦を展開して倭敵を追い出しました。
この時、明の遊撃将盧得功が戦死し、今の洙陽公園は
旧城の一部で、城内には洙陽楼と八角亭など各種休憩施設があり
泗川市民のための快適な休息空間となっています。

  • 창선ㆍ삼천포대교
  • 창선ㆍ삼천포대교
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